日暮れに
第十二小隊の面々がビュッデヒュッケ城に腰を落ち着けるようになったことで、クイーンにとって嬉しい楽しみが幾つか増えたが、そのうちの一つに「風呂」があった。
城には大きな浴場があり、いつでもお湯が沸いていて、気が向いたときに入浴することができる。
これは女であるクイーンにはかなり嬉しいことだった。
任務中や旅の途中では、殆どの場合、まずお湯での入浴は望めない。小川を見つけることができれば水浴びすることができたが、それすらかなわない状況も多々あった。
そういった状況が当然のこととして、クイーンもとりたてて文句を言ったことはないが、やはり現在のようにいつでも風呂に入ることができる、というのはクイーンの気分を明るくする出来事だった。
その日も、暇つぶしにゼクセン騎士を一人捕まえて、散々剣の相手としてからかってやった後、クイーンは汗を流しに風呂へと向かった。日が落ちる前のこともあり、女風呂にやってきたのはクイーン一人だけで、貸しきり気分を味わいながら、のんびりと身体を洗い、肩までお湯に浸かって風呂を満喫した。
風呂から上がったクイーンは、上機嫌のまま、もう一つのお楽しみである酒を求めて、酒場へ向かおうとした。その途中で、連れとしてゲドを誘おうと思い立ち、酒場へ向いていた足を城の執務室に変えた。十二小隊の溜まり場にもなっているその部屋で、ゲドはまだ仕事をしているはずだ。
濡れた黒髪から滴が垂れるのを布で拭き取りながら、クイーンは緩いカーブを描く正面階段を上って、本来は城主の執務室として使われていた部屋に向かった。現在は、真なる炎の紋章を継承したゲドがシックスクランとゼクセン連邦の連合軍の頭領として、その部屋で会議を行っていることが多い。
部屋の前までやってきたクイーンは、軽く扉をノックした。が、しばらく待っても返答がないので、首をかしげながら扉のノブを捻った。鍵はかかっていない。クイーンはそのまま扉を開いて中に入った。
「ゲド?いないのかい?」
夕焼けに赤く染まった室内に入り、辺りを見回したが、乱雑に書類の積まれた執務机の前にゲドの姿はなく、他に人もいなかった。当てが外れたクイーンは、しんとした室内で一人肩をすくめた。一応、続き部屋になっている隣室の様子も見に、足を運ぶ。
と、部屋の境目でクイーンは足を止め、意外なものを見て目を丸くした。
ゲドは続き部屋に、いた。他に人はおらず、彼一人である。
ゲドは部屋の角に置かれた寝台の上で、仰向けに目を閉じて、静かに寝息を立てていた。
普段なら、クイーンが入ってきた気配を感じ取って、どれほど深く眠っているようでもすぐに目を覚ましているところである。それが全く目覚める様子もなく、規則正しい呼吸を繰り返している。
「珍しいね…」
ゲドを起こさないよう、小声で呟いたクイーンは、足音を殺してゲドの側に近寄った。
寝台の端にそっと腰を下ろして、ゲドの寝顔を見下ろした。瞼を閉じて死んだように眠る男の、彫りの深い顔を見つめて、クイーンは微苦笑した。
ゲドが相当疲れているらしいと解っていても、こうして寝顔を見ることができて嬉しいと感じる女心の勝手さが始末におえない、そう思う。
クイーンはゲドを起こさないよう細心の注意を払いながら、ゲドの足元に落ちている毛布をとって掛けてやろうとした。静かに毛布を引き上げて、肩の辺りまで掛けてやる。
「……風呂上りか、クイーン?」
ゲドの上に覆い被さる格好で毛布を掛けていたクイーンの身体の下から、突然声が掛けられた。驚いて、その姿勢のままでゲドの顔を見下ろした。
眉間に皺を寄せたゲドが、クイーンを見返してくる。
…その額には、クイーンの濡れたままの髪から滴り落ちたらしい水滴が幾つか乗っていた。
詰めていた息をほっと吐き出してクイーンは身体を引き、自分の髪に手を遣った。
「悪いね、ゲド。起こしちまったかい」
「すぐに起きるつもりだったから、構わないが…」
そう言いながら、ゲドは身じろぎをし、ゆっくりとした動作で上半身を起こした。
「もう、こんな時刻か」
ゲドは夕日で赤く染まっている室内を見渡し、静かに吐息した。
「熟睡してたみたいだね。あたしが入ってきたのに気付かなかったようだし」
「ああ……」
頭を押さえて首を振ったゲドは、ふと気付いたようにクイーンを見やった。
「どうした?」
「え?」
「何か用があって来たんだろう」
「ああ、久しぶりに飲みに誘おうかと思ったんだけどね、でも今日は止めておくよ」
「何故だ?」
「ゲドが大分疲れてるみたいだから、次の機会まで待つよ」
「これぐらいで構わんさ、クイーン」
「ゲド?」
微妙な声の変化に気付いて、クイーンはゲドの顔を改めて注視した。その視線を避けるようにゲドは横を向き、低く呟いた。
「たまには、悪くないだろう。…飲まないと、やり過ごせないこともある」
隠し切れない疲労の滲む横顔を、クイーンは気遣わしげに見つめたが、すぐに気分を切り替えて明るい口調で応じた。
「今日は珍しいことが続くね。それじゃあ、どうしようか。酒場に行って飲むかい?」
「ここで構わないだろう。ジョーカーが置いていった酒がある」
テーブルの上に散乱した酒瓶を顎で示して、ゲドは言った。
クイーンも頷いて承諾しようとして、不意に衝動に襲われ、我慢しきれずに、立て続けにくしゃみを数回した。
クイーンはぶるっと身体を震わせた。
「そんな髪でいつまでもいるからだ」
「そうだね、少し冷えたみたいだ」
髪から滴った水滴で、肩の辺りも濡れている。そのせいもあってか、身体が冷えてきていることをクイーンは自覚した。
外では陽が完全に落ちたらしく、それに伴って室内も薄暗くなり始めている。ハルモニアほどではなくとも、グラスランドでも夜が近くなるほど気温は下がり、肌身で感じる空気は冷えてくる。クイーンは髪を拭く布を探して辺りを見回した。
「……ゲド?」
頭上から降ってきた布に視界をさえぎられて、クイーンは思わずゲドの方に顔を向けた。しかし、頭をすっぽりと覆う布にさえぎられて、ゲドの顔を見ることはできない。
ゲドの手が不器用に髪の毛を拭っているのが、布越しに伝わってきていた。
「……風邪を引くぞ」
クイーンは目を見開いて、見えないゲドの顔を見つめるようにしていたが、やがて微笑んだ。
(本当に、珍しいことが続くよ)
胸中で囁き、クイーンは大人しく、ゲドがするままに頭を擦られていた。自分のしていることに戸惑い気味なゲドの動作が、クイーンには手に取るように解り、クイーンは再び微笑した。
顔を見ることはできないが、至近にある男の襟元が、布の狭間から窺うことができた。ちらちらと揺れる布の間から、開いた襟元の、日に焼けた喉元が見える。
二人は暫くの間黙り込んでいたが、クイーンがぽつりと呟いて沈黙を破った。
「……ねえ、ゲド」
「何だ」
「酒以外で、男が気持ちよく眠れる方法があるけど……知りたいかい?」
一瞬、ゲドの手が止まった。が、その後は何事もなかったかのように、クイーンの髪を拭っている。
「いや、酒で充分だ」
「……そう」
クイーンはゲドに気取られないよう、そっとため息をついた。
クイーンがゲドと行動を共にするようになってかなりの年月が経つが、ゲドに抱かれたことは一度もない。
それがゲドなりのけじめなのか、潔癖な性分ゆえかは判然としないところだが、クイーンにとってはいささか複雑な心境だった。
気まぐれで慰みにされるのは御免だが、こういう時ぐらい、否と言わなくてもいいのではないかと思う。
女を抱くことで疲れを忘れる方法があるのに、ゲドは頑なにそれを認めようとしない。
真の炎の紋章を受け継いだことによって、にわかにゲドの周辺は騒がしくなっていた。格段に戦闘に遭遇する回数も増え、絶大な威力を発揮する紋章の持ち主として、ゲド自身が駆りだされることもある。
つい先日は、ゲドの旧知の友が亡くなった。そのことに衝撃を受けているとしても、決してゲドはそれを表面に出すことなく、黙して自身の責務を果たそうとしていた。
かつての英雄より継いだ、炎の名を持つ重い役目を。
「…ゲド、もう乾いたよ。すまないね」
「ああ」
ゲドの手がクイーンの頭を包む布から離れた。クイーンは布をゆっくりと引き下ろし、ゲドの顔をまっすぐ見つめた。黙然と見つめ返してくる男の顔は、刻一刻と濃くなっていく夜の闇にまぎれて、はっきりとは見えなかった。
いきなり、クイーンはゲドの襟首に腕を廻して引き寄せた。咄嗟の出来事にバランスを崩しかけたゲドの一瞬の隙を見逃さず、奪うようにして唇を重ね合わせた。
そのまま、体重をかけてゲドを寝台の上に押し倒す。
半ばあっけに取られてされるままになっているゲドから顔を離して、クイーンはにやりと笑った。
「驚いたかい、ゲド?」
「……」
「たまには、こういうのも悪くないだろ?」
「……」
クイーンは笑い、もう一度、今度はゲドの額に口付けを落とした。
「女の誘いを断るんじゃないよ、ゲド。今日は見逃してあげるけど、もっとあたしを利用するぐらいでないと、自分の身が持たないからね」
ゲドは長い息を吐いた。
「……クイーン、解ったから、俺の上から退いてくれ」
「ああ、いま退くよ」
その時、廊下に続く扉が二度、規則正しくノックされた。
思わず二人で顔を見合わせる。その間に、扉はゆっくりと開いた。
「ゲド様、失礼いたします。御夕食の準備が整いましたの……で……」
せかせかと入室してきたセバスチャンは、ベッドに横たわるゲドと、その上にまたがるクイーンの姿を目撃して、その場に硬直した。
「あら、もうそんな時間かい」
「……」
ゲドの上から退こうとせず、悠然とセバスチャンに笑いかけるクイーンと、諦めたようにため息をついて無言のゲドに対し、セバスチャンの頭の中は一気に混乱に陥った。
「ゲ、ゲド様っ!し、し、しし失礼いたしましたっ!!」
そのまま回れ右をしようとして失敗し、よろめいて家具に足を強打しながら、それに気付いた様子もなく、セバスチャンは慌てふためいて扉に突進し、部屋から飛び出していった。
「噂になるかね?」
「……クイーン……」
「解ったよ、いま退くから」
やっとゲドの上から身体を退かして、クイーンは渋い顔のゲドに向かって微笑した。
「さて、どうしようか?先に夕飯を食べに行くかい?」
「……酒が先だ」
そう呟くと、ゲドは寝台から降り、テーブルに歩み寄って酒瓶を一本手に取ると、栓を抜いてそのまま口をつけた。側に寄ってきたクイーンに手渡すと、クイーンも同じようにして酒を喉に流し込んだ。
「今夜は付き合ってもらうからな、クイーン」
ゲドの言葉に、否やはもとよりなかった。
クイーンは艶のある笑みを浮かべ、応えた。
「気が済むまで付き合うよ、ゲド」
・・・THE END・・・
